偉大なる社畜、偉大なる老後、淡海三船の生涯。


!!!OHMI-NO-MIFUNE!!!

なんともさみしげな背中のこの男、名を淡海三船(722〜785)という。
天智天皇のやしゃご、大友皇子のひ孫にあたり、やったことがデカい割には知名度が低い。

淡海三船神武天皇から元正天皇までの43人の天皇(弘文と元明は除く)に漢風諡号という中国に倣った諡号を追贈したことで知られる。もちろん昔の天皇にも"名前"はあったが、彼の手によって全員"改名"させられたのだ。今日僕たちが呼んでいる神武なり雄略なり推古なりの名称はコイツによって付けられたと考えるとその業績は凄まじく大きい。



そんな淡海三船が付けた漢風諡号を見ると妙なことに気づく。
斉明以前(〜661年)と次代の天智以後(668年〜)で諡号のグレードが変わるのだ。

斉明以前は「いい名前」で天智以後は「すごくいい名前」になっている。
もう少し具体的に言うと、諡号を構成する二文字の諡字の組み合わせが違う。「まぁまぁの字+いい字」から「いい字+いい字」に変化しているのだ。

詳しくはコチラのURLを参照→http://www.toride.com/~sansui/posthumous-name/sigo01-2.html

ここで一つ疑問がわく。

天智の次代の天武(673年〜)からはいわゆる「天武系」の天皇が続き皇室の血統が変わるのだが、なぜ天武の仇敵大友皇子のひ孫である淡海三船が天智系に比べ天武系に良い諡字を使ったのか? 漢風諡号の創始事業は淳仁から称徳の治世にかけて行われた(『ブリタニカ大百科事典』によると762年〜768年にかけて)。二人とも天武系である。とすると、淡海三船は天武系を持ち上げるように強制されたのではないか?



この疑問から一つの仮説を打ち立ててみた。
「漢風諡号の創始は天武系を正統化する事業の一つだった」という仮説である!どや!
(以後↑を大前提に書く)

天武系の正統化事業として国史の編纂が挙げられるが(元明の治世に『古事記』『日本書紀』として完成)、漢風諡号の創始もその一つと僕は考える。

天武天皇の代から中国に倣う政策がバンバン出されてたことは日本史上でも注目に値する。国史の編纂以外にも、律令の編纂や藤原京の造営など天武天皇を境に日本は急速に中国化していった。漢風諡号もその一環であり(漢風とは当然ながら中国風を意味する)、血統の正統化が目的と考えるのが自然であろう。

なぜならば、そもそも前代全員の諡号を与えること自体が「俺たちは前代全員に影響を及ぼすほどの力を持っているんだぞ」と主張していることに変わりないから、というのが一つ。さらにそれだけでは飽きたらず、天武系を相対的に持ち上げる諡号を制定したことは正統化の決定打と言えよう(これが本国中国ならば紂王や霊帝などあからさまな諡号となるが、日本は天皇による万世一系の統治であり放伐という思想自体がないため相対的な持ち上げ方となっている)。



しかし、またもや疑問がわく。二点わく。
一つは、なぜ天武が皇統を簒奪した天智天皇には「天智」というすごくいい諡号が与えられたのか?
二つは、なぜ天武の仇敵の子孫である淡海三船にこの大事業の責任者としたのか?

一つ目の疑問に関しては、天智=悪い諡号という説もある。しかし、どちらの説を採るにせよ僕が導き出したい結論は同じなので、せっかくだから一応そちらも紹介しておく。ということで、善or悪かで場合分けして考えたい。

  • 天智=善 説

天智は先に引用したリンクによれば良い諡号ということになっている。

ではなぜ天武系が天智天皇にいい諡号を与えた理由を、天智と天武で対にさせ「あたかもスムーズに皇統が変わったと見せかけるため」「簒奪の事実を隠すため」と僕は考える。つまり、天智は特例でありフェイクなのである。

反逆者一族という看板を背負い肩身の狭い思いをして生きてきた淡海三船は、この二枚舌に義憤を感じたことだろう。時は淳仁の治世、672年の壬申の乱から100年近くが経っている。もうあの出来事の記憶は薄れている。その時になって天武系はあたかも皇統の簒奪など無かったかのようにしたのだ。それでも自分には敗れ去った一族の血が流れている。こう考えると、「天智」という"素晴らしい"諡号を思い付いた時にあっても、淡海三船の心の奥底では激しい怒りがこみあげていたに違いない。

  • 天智=悪 説

この説は森鴎外が『帝諡考』の中で取り上げている。以下かいつまんだ引用。
(詳しく知りたい方は井沢元彦『逆説の日本史2古代怨霊編』を参照して下さい。鴎外をさらに詳しく引用してます。)

天智と天武は対になっている。天智の智は確かにいい諡字ではあるが殷の紂王ゆかりの字であり、対する天武の武は紂王を滅ぼした商の武王に由来するものである。よって天智は悪い諡号、つまり天武系の正統性のために付けられた諡号である。

とするならば、天智という諡号は歴代屈指の悪い諡号ということになる。

そんな名を天智天皇のやしゃごである淡海三船が付けたとなると、ここまで行くと「淡海三船による一括ネーミング自体が嘘」という線も出てくるが、これを採ると今まで書いたことを全て吹き飛ばしてしまうので、僕としては別の考え方を採り話を進めていく。

それは、「淡海三船は先祖を貶める事業を無理やりやらされた」という解釈である。淡海三船は無理やりひぃひぃじいちゃんの天智を貶める作業をさせられたのだ。さぞかし辛かったであろう。

以上、天智が善であろうが悪であろうが、漢風諡号の創始事業は淡海三船の本意とするところではなかったということだ。しかし、朝廷の命には逆らえない。やりたくないことを仕事だからと割り切って仕方なくやる、彼は現代で言うところの社畜のような存在と言えよう。



少し長くなってすみません。正直大したことではないのだが、次の疑問を見ていこう。
なぜ淡海三船が漢風諡号の選定者に選ばれたのか?

諡号事業=天武系の正統化」という仮説を元にするならば、何も彼でなくてもよかったのではという疑問が残る。
その答えとして以下の二つが考えられる。

一つは、淡海三船に"転向"を迫るため。天智系の直系である彼を無理やり寝返らせるために起用したのではないか。
二つは、淡海三船以外に適任者がいなかった。彼は我が国最古の漢詩集『懐風藻』の編者とも言われ、中国の故事に精通していたと言われる。となると三船より他に"漢風"諡号を選ぶ適任者はいなかったのではないか。

一つ目を採るならば、正統化事業は人選においても正統化の目的があったことになる。
二つ目を採るならば、淡海三船は"敵"にすら認められるほどの才覚の持ち主だったことになる。まるで戊辰戦争で賊軍として戦った榎本武揚立見尚文が、その才能を惜しまれ維新政府から異例の抜擢をされたような格好だ。

ぶっちゃけ、どちらであろうと、どちらでもなかろうと、どちらでもあろうとよい。繰り返すが、淡海三船が漢風諡号の選定を引き受けたのは、天武系政権下で生き残るためには仕方なかったことだからだ。

彼の苦悩はこの事業以外でも見て取れる。たとえば事業着手の約6年前、三船は朝廷を誹謗したとして禁固刑を受けている。とすると「これ以上天武系には逆らえまい」として、漢風諡号の制定という本意ではない仕事を引き受けたのではないだろうか。というより引き受けざるを得なかった。やはり、生き残り策だったとしか考えられない。なんて不憫なんだ…!



しかし、突如として淡海三船の逆運の人生が一気に開ける。

770年称徳天皇が後継者がいないまま急逝し、天智系の光仁天皇が即位した。
予期せぬ政局の変化に三船は歓喜したことであろう。ようやく自分の血統にスポットがあたったのだ。

ここから天智系の巻き返しが始まる。まず注目したいのが、光仁の光。
後漢創始者光武帝を見れば分かるように、光の諡字には「新たな正統性」という意味が込められている。つまり、"天智王朝"の復活を高らかに宣言したのだ。

淡海三船の巻き返しも特筆すべきだ。
彼は光仁天皇の下で新たな国史の編纂に取り組む(後の『続日本紀』とされる)。今度は打って変わって天智系の正統性を訴える事業に乗り出したのだ。さぞ痛快だったことだろう。

天智系なばっかりに才覚があったばっかりに、世知辛い渡世を強いられた淡海三船は、その晩年にようやく"正統性"を得た。まさに人生9回裏の名誉挽回。素晴らしい老後だったに違いない。781年に逝去。享年64。