「だまし討ち」の日本史

蝦夷(エミシ)・アテルイの戦い―大和朝廷を震撼させた (遙かなる縄文の風景)

蝦夷(エミシ)・アテルイの戦い―大和朝廷を震撼させた (遙かなる縄文の風景)

久慈力『蝦夷アテルイの戦い』でトンチンカンな解釈があったので紹介しておく。
なぜ"トンチンカン"なのかというと、この本は幾分「蝦夷びいき」を以て書かれているのだが、彼らの弁護が弁護になっていない解釈があったからだ。今回はそれを紹介する。


蝦夷の族長アテルイとモレは兵500と共に大和朝廷に降伏し、坂上田村麻呂の助命嘆願もむなしく斬首されてしまった」というのが僕たちが習う歴史である。

氏はこれを朝廷側の美談捏造とし「"講話のために"やってきたアテルイとモレを田村麻呂と桓武がだまし討ちにした」と解釈する。要するに、朝廷は老獪だ・蝦夷は負けていないと言いたいらしい。(その論拠を知りたい人は著作の第13章を参照にしてね)

蝦夷びいきの判官びいきな感が否めないが、この解釈はかえって「蝦夷の政治オンチ」を証明することとなり、彼らの弁護にすらなっていない。なぜなら、敵の本拠地にたった兵500で行っても殺されるに決まっているからである。殺害後は、史書をちゃちゃっと改ざんすればあら不思議。田村麻呂を義理堅い武人に仕上げ、桓武蝦夷征伐成功者に仕立て上げることなんていとも簡単なことだ。アテルイの上洛はまさに鴨が葱を背負って来る格好、わざわざ敵に功をあげる与える愚挙以外のなにものでもない。

しかし、そもそも「だまし討ち」が悪いことなのかというのも疑問だ。
悪いという人は、現代の倫理観で歴史をみている。

俗説通り「蝦夷が降伏した」としようが新説通り「だまし討ちにあった」としようが、アテルイが殺された結果は変わらない。むしろだまし討ちで負ける方が情けないだろう。


ところで、こうのような「だまし討ち」は日本史上多々みられるので二つばかり紹介したい。

まずは、だまし討ちが日常茶飯事だった戦国時代の中でも僕が最も"美しい"と思うもの、織田信長の父である織田信秀による「那古野城奪取」。名門今川家の一門・今川氏豊の居城・那古野城を、信秀は如何にして奪ったのか?

まず信秀は、氏豊が連歌を非常に好むことに眼を付け、彼が城内で主催する連歌会に足しげく通い信頼を獲得することから始める。そうこうしている内に城内の出入りを許された信秀は、ある日突然"病で"倒れてしまう。「家臣に遺言を頼みたい」と言った時点で計略は成功。氏豊は信秀を信じきって家臣の侵入を許してしまう。そしてまんまと侵入した信秀軍は城を放火、いとも簡単に那古野城を奪取してしまったのだ。

まさに天衣無縫のだまし討ち。
こうして奪った那古野城は後に息子の信長に引き継がれ、彼の天下統一事業における根拠地の一つとなる。


次に、江戸時代に北海道を治めていた松前藩による「シャクシャイン殺害」。

1669年、和人との交易を独占する松前藩に対しアイヌの首長シャクシャインは蜂起した。アイヌの徹底抗戦に頭を悩ませた松前藩は講話を持ちかけ、まんまとそれに乗っかってしまったシャクシャインを講話の席で殺したのだ。指導者を失った後のアイヌ軍は崩壊してしまい、これを機に松前藩は彼らへの圧迫を強めて行った。

これは、先に述べた「アテルイだまし討ち」に非常に似ている。すなわち、異民族(蝦夷/アイヌ)が中央権力による「だまし討ち」に会う。これらのエピソードは、何も剣と剣を交える白兵戦だけが戦争ではないのを物語っている。



ということで、今回は「だまし討ち」について書いた。

「だまし討ち」によって、信秀は信長のスタートダッシュに大いに貢献したし、松前藩はさらなる交易権の独占に成功した。また久慈力の「アテルイはだまし討ちにあった」という説から、目的を達成した後は手段を捏造することすら出来ることが歴史から分かったと思う。